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しかし問題なのは、これまで『大日本史料』(第六編之四・二九三頁)に従って読まれていた館名が、かつて

吉田東伍『大日本地名辞書』に「二藤次(一本に倉次と判読せり)、當(一本に雷と判読せり)」という指摘の

のった通り、必らずしも明確になっていないことである。とくに當館の場合は、「雷館」と読める可能性がつよ

いように思われる。雷館に該当する地名は現在見当たらず、小坂町野口の大雷神社が思い浮かぶが、同社由来は

寛永五年(一六二八)創立と割に新しい。落雷を祀ったという雷社・法領社は当時各地にあったといわれ、定か

でない。古代氏族に物部一族大豆田氏がみえ、曽我貞光軍忠状で南朝方倉光孫三郎が拠る津軽小栗山楯を倉光館

と称している例もあるところから、大豆田・二藤次・雷はともに人名を冠した館だったかもしれない。いずれに

せよ、この三楯は一日で打落される程度の小砦だったので、名称の痕跡を今日探索すること自体難かしいといわ

ねばならない。

ただここで確認すべきことは、この合戦における攻撃軍の主体は曽我氏ではなく、浅利氏であったという点で

ある。津軽から新遠部沢沿いに侵攻してきたとみるよりは、巻山峠越えに鹿角南部に侵入し、北上して鹿角から

去った、とみるのが妥当であろう。軍忠状の虫喰い未詳部分の「□尾楯」は、浅利軍が北上し攻撃した最後の楯で

あり、あるいは毛馬内字大坊館・花輪字大坊沢などの地名と関連があるかもしれない、とも考えられている。

草刈場鹿角郡

成田氏もまた、津軽へ進出していた。建武三年正月、成田六郎左衛門尉は南部師行らと津軽藤

崎・平内城に拠って安藤家季軍と合戦し、この時曽我貞光は左膝に矢疵を負うて退いている(

遠野南部文書貞和三年五月日曽我貞光申状案)。暦応二年=延元四年(一三三九)三月には、成田頼時が越後五郎・

遠野南部文書貞和三年五月日曽我貞光申状案)。暦応二年=延元四年(一三三九)三月には、成田頼時が越後五