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南部六郎政長らと共に、数百騎を率いて津軽に攻入り、安藤師季や浅利清連らと合戦し大光寺外楯を打落した(暦
応二年五月二十日曽我貞光軍忠状・貞和三年五月日申状案)。ここに登場する越後五郎は、当時の軍忠状に「
先代一族」と注記され、近世の『八戸家伝記』には政元と記されている北条一族であった。北条氏関係系図では
その名を確認できないが、かつての中先代の乱の当事者北条時行自身が北畠顕家軍に加わっている情勢のなかで、
北奥においても北条一族が復権し、成田氏らと行動を共にしていたことは想像に難くない。ここでも複雑かつ深
刻な内乱の様子を窺い知ることができる。
関東成田一族の新惣領の地位を得ていたとみられる成田基員は、鎌倉府に属し、北党として活躍していた。鹿
角所領に派遣された代官も、北党勢であった。しかしこの成田基員の地位とて、けっして安泰ではなく、鎌倉末
期の幕府評定衆兼引付頭人摂津親監の一族蔵人三郎重親が、成田氏を称しながら足利尊氏軍に終始直属していた
という事実(備前池田文書建武三年九月日成田重親軍忠状)からも、政局次第では成田基員の地位を脅かす存在
であったことが知られる。関東安保一族の新惣領安保光泰・泰規父子も、北党として鎌倉府に属していたが、光
泰の二男安保直実は、足利尊氏執事高師直の家人となり、尊氏軍に直属して活躍し惣領家の地位を狙っていたと
いわれる(『民衆史研究』八号・太田順三氏論文)。内乱は、単に南北両党の対立という図式だけでは解釈しきれ
ない錯綜した動きを、内包していたのである
鹿角郡の成田一族や安保一族が、成田頼時の指揮下にすべて南党に属していたのではないように、比内郡浅利
一族とてその団結に亀裂を生じないわけにはいかなかった。浅利尾張守なる者が、南部伊予守・葛西伯耆守・多田