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らなくなっていたのである。
奥州管領府下の鹿角
康永元年=興国三年(一三四二)十月、北畠顕信と石塔義房の指揮する奥羽南北両党の
王力軍が、栗原庄三迫で激突した。凱歌は北党にあがり、顕信は岩手郡滴石に身を潜ふ
たといわれる。すでに南帝は後醍醐天皇からかつての陸奥親王義良の後村上天皇にかわっていたが、この奥州
迫の敗戦は当時の政局に大きな影響を与えた。翌年、奥羽南党の中心結城親朝が足利尊氏に降り、常陸で釆配を
振っていた北畠親房も吉野に帰り、北朝=幕府の優勢は決定的となった。
貞和二年=興国七年(一三四六)奥州総大将制は奥州管領制に改められ、多賀府に奥州管領府が設置された。
石塔義房にかわり、幕府引付頭人吉良貞家と幕府軍団の青年将校の畠山国氏二人が管領として着任した。その下
で、奥羽支配の幕府的秩序化が推進されるのである。
北奥では、滴石にあった北畠顕信を擁して、糠部南部氏を中心に南党勢の結束が保たれていたが、その南部氏
のもとへしきりに足利方の勧降の手がのびている。南部政長を勧誘した貞和二年四月十一日・同十二月九日の足
利直義直状と、政長降参の処遇を奥州管領に伝える貞和二年十二月二十一日将軍足利尊氏御判御教書案(遠野苗
前文書)が、ともに今に残る。この後の幕府内政変がなければ、南部氏もこの時点で北党にかわったであろうと
いわれる。津軽においては、もともと北党勢が優勢で、管領府の組織化はより鮮明に進んでいた