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譜」には、正安元年是阿上人の出羽国十文寺阿弥陀寺開基など多くの奥羽道場も記載されている。田山地区のよ

うな名号板碑も、信夫庄高石仏の延慶三年碑をはじめ、雄勝郡西馬音内御嶽社の元徳二年碑、小鹿島脇本の貞和

二年碑、牡鹿郡稲井高木観音堂の元亨四年碑、同郡石巻法山寺の明徳二年碑等々、各地の報告がある。室町期以

降は、さらに多くなる。

とくに内乱期には、戦場から戦場へと移動し合戦に明け暮れる軍団の中に、時衆僧が参加していた。攻める者

も守る者も念仏を唱名し、激戦の跡の地獄を見てまた念仏の信心を深める。遊行を修法とする時衆僧こそ、合戦

の場には欠かせない存在であった。このような僧がやがて各地に道場を開いて、人々の菩堤も弔う。こうして遊

行中に得た各地の見聞が地方に伝えられ、広く人々の帰依も得たのである

田山の名号供養碑は、このような人々の心情を今に伝えているようである。鹿角合戦で命を落した多くの霊を

弔う鎮魂碑でもあっただろうが、この地域の人々には、北朝年号も抵抗感なく受け入れられていたのである

足利一族の鹿角郡分郡化

内乱は、さらに様相を変えて進行していた。観応の擾乱を発端に、幕府権力自体が

刀裂し、さらに混迷の度を増していった。奥羽では、足利尊氏が南朝に帰降した機

会に、観応二年=正平七年(一三五二)北畠顕信が多賀国府に入り、再び尊氏の離反にあうや忽ち撤退したが

南北両党の激突は蘇った。足利尊氏・直義兄弟の対立は子息の義詮・直冬兄弟の対立となって続き、奥羽の統率

者たる奥州管領もこの中央権力の分裂をそのままに再現する。斯波・吉良・畠山・石塔四氏らが、足利義詮と足

利直冬の夫々から奥羽管領に補任されたと称し、奥羽各地で対立したのである