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すでに全国各地で、守護が守護大名となり、任国を分国と称して領国化する動きを示していた。奥羽では、〓
倉期以来ずっと地域支配の要となってきた郡が、分郡として領有の対象とされる。奥羽各地で対立する足利一門
の奥州管領たちは、管領としての基盤を競って分郡領有に求めた。奥羽国人として有力だった伊達氏の名字の地
伊達郡ですら例外ではなく(『鶴岡社務記録』『余目氏記録』)、この動きに伊達氏はじめ結城白河・岩城・
芦名・相馬・葛西氏等は猛烈に反対した。その抵抗に管領たちは、これら有力国人とは妥協してその分郡領有を
保証し、自らの分郡を元弘没収地の烙印を負う郡々に設定したのである。
余目氏記録』は、陸奥国留守職の後裔留守氏が十六世紀初頭期に、奥州探題大崎家の家伝文書なども参考に
書きあげた奥羽政治史の記録であるが、「(吉良・畠山両管領は)糠部郡とみやきヲハ、一郡ヲ半分ツゝわけ給
ふ、そのゆヘハ、ぬかのふハ大郡といひ、しゅ〳〵のこほりたるゆへなり、みやきハ国の府中ニて、昔より国の
あるし御在所たる間也」と記している。元弘没収地糠部郡と府郡宮城郡だけは、分郡が二分されたというのであ
る。糠部の南部氏は南党の旗を掲げ続けることで、管領たちに抵抗した。
元弘没収地の烙印をおされていた鹿角郡が、この動向の埓外におかれるはずがなかった。この時期の鹿角関係
文書が津軽・糠部関係文書群にも一点もない、ということ自体何か暗示的である。鹿角郡主を称する足利一族が、
入りかわり立ちかわり代官を派遣した様子を想定して誤まりないと思われる。
一方、この情況のなかで、関東の惣領家たちがまたまた代官を鹿角に送りこんできたことも推察できる。奥州
管領府の整備を命じた幕府副将軍足利直義の政策は、鎌倉期の惣領制復活をひとつの柱としていた。関東惣領家