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元四人ナリ、奈良ハ
大湯・小坂
小平・小江刺
四人ニ分ル、成田ハ
田内夏井・名越
三ヶ田・猿雄
五人ニ分ル、阿部ハ
大里・柴内
三ケ所ニ分ル、丹治氏ト
鼻和
云、秋元ハ
高瀬長内
小猿辺
長内三ヶ所ニ分ル、公任卿ノ末孫也」と記されている。また、近世南部藩政下の鹿角で十七世紀末
頃に書上げられたという『鹿角由来記』では、「鹿角郡四天侍の事」「鹿角郡四十二館ニ侍四十二人居候事」と
題して、館と館主の変遷を記しながら、「時ノ人、阿保・秋元・奈良・成田四天士と申」すという「本名」の人
人が南部氏勢力侵入前の館主であった、という様子を描いている。
これらの記録類は、たしかに戦国期の状況を如実に伝える史料であろう。例えば、『郡中名字』で成田一族の
所領として記す五ヶ郷村は、『鹿角由来記』でみると、夏井・三ヶ田・尾去(猿雄)の三村は成田氏から安保氏
へ、長牛(名越)は成田氏から秋元氏と替わりさらに南部氏一門一戸摂津へ、谷内(田内)も成田氏から同じく
南部方一戸(武田)弾正左衛門へと各々交替しているように、領主の交替は著しい。「成田の惣領毛馬内備中」
の拠点だったという毛馬内が『郡中名字』に記載されていないのも、天文年中に南部靱負信継が毛馬内を知行し
たといわれることと関係があるとおもわれる。ともあれ、この記録類から、ひとつは、領主たちが毛馬内・大里
・大湯・高瀬等々の鹿角の郷村を名字とする領主層にすでに変貌し、また彼らが頻々と栄枯盛衰をくり返し館主
の地位を交替していたにもかかわらず、本来の領主は成田・安保・奈良・秋元である、という「鹿角四姓」の「
本名」でもって伝えられ、記録されていること。もうひとつは、「鹿角四姓」の各々が一族ごとに結集しながら、
鹿角ハ四人ノ国人也」「鹿角郡四天士」と称されていること、の二点に注目できる。すなわち、戦国期以前の
ゐる時期から、四国人の結合と、国人内部の一族結合との二重の結合が成立し、鹿角を維持してきた、という事