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実を読みとれるのである。

中世鹿角を維持してきた、この結合形態こそ国人一揆といえる。平安末期の郡司職、鎌倉期の郡地頭職、建武

~内乱期の郡検断奉行職を経て、南北朝期後半から奥羽各地に表出する国人一揆と、おおむね同様の傾向を示し

ており、鹿角四頭の結合はこの時期から出現した国人一揆である、と考えられる

見継ぎ見継がれ

」の時期に国人たちの取り交した一揆契状は、各地に現存する。契状は散失し現存しなくと

も、国人一揆的形態が奥羽各地に結成され、地域維持の要となっていたことが各地で証明さ

れている(『中世奥羽の世界』遠藤巌・伊藤喜良氏論文)。例えば、契状は散失したが、奥州管領斯波(大崎)

氏勢力下でも、十四世紀末に「留守・葛西・山内・長江・登米五郡一揆」や「渋谷・大掾・泉田・四方田・留守

五氏一揆」が結成されていたという(余目氏記録)。五郡一揆・七郡一揆など郡領域単位の国人一揆や、五氏一

揆や一族一揆など、多様な国人一揆が奥羽各地に出現していた。

国人一揆は、各地の状勢に応じて多様な形態をとるが、国人ごとの一族結合がその基礎となっている。郷村を

名字として郷村ごとに分立しつつあった領主たちにとって、内乱から身を守るためには、まず鎌倉武士団のとき

の姓を本名として団結する必要があったのである。現存する奥羽の契状では、観応二年(一三五一)の田村・安積

両一族一揆契状(富塚文書)、永和三年(一三七七)明徳二年(一三九一)の結城一族一揆契状(結城文書)、明

徳元年の石川一族一揆契状(結城文書)などに、端的な例を見ることができる。一族結合とはいっても、本来は

他姓である者をも同族として結託する事態も現われていた(秋田藩家蔵文書赤坂文書・同白川文書・飯野文書等)。