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第三節南部・浅利・秋田諸氏の鹿角侵入
一、応永・康正における南部氏の勢力浸透
応永の秋田合戦と鹿角
九中九年=明徳三年(一三九二)南北両朝合一後の北奥では、八戸南部氏に代り三
戸南部氏が勢威を振うようになり、糠部地方は勿論北は下北・津軽諸郡から鹿角郡、
出羽の仙北郡にまでその領地と勢力範囲を拡げつつあった。比内には桧山安東氏の勢力が次第に浸透してきてお
り、十六世紀の初め浅利氏本流といわれる浅利則頼が甲斐国から移住するにおよんで、安東・浅利両氏の対立が
激しさを増していた。天文年間以前の鹿角にかかわる若干の動きが、近世の推測史料である諸書に散見できる。
応永十八年(一四一一)三戸南部守行が秋田刈和野において安東鹿季(庶季)と交戦したと伝えられる。『南
部世譜附録』十三世守行の項に、「守行兵ヲ率ヒ往キ(秋田城介)鹿季ヲ撃ツ、鹿季衆兵ヲ以テ激戦ス、我軍利
アラズ、退テ刈和野ニ陣ス」云々。その時双鶴陣中に舞うの瑞祥を得て士気大いに揚り、遂に敵を破るに至った
といわれ、南部家双鶴紋の起こりである。
二戸から秋田仙北まで進軍するのにどの経路をたどったものであろうか。『奥南落穂集』に下国安東次郎鹿季
いついて、「応永元年出羽ニ兵ヲ出シ秋田城介顕任ヲ討亡シ秋田ニ移住シテ秋田城介ト称ス、南部守行公ト比内