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二於テ度々接戦シ以後数代確執タリ」とある。
南旧秘事記』では、「守行公の武威奥州に振ひ近国皆属之、羽州秋田属し不肯守行公則兵を将ひ道を鹿角那
に取て往て撃之、葛西平満政及次子信敏来会して助兵たり云々」としている。また『三翁昔語』には守行と秋田
城之助庶季との鹿角郡争奪戦の形をとり、「(応永十八年)正月二十三日秋田境へ押詰らるる所に最早敵は山上に
陳のはり難所を前にして身方進退自由ならさる故両度の取合毎度利を失ふ、敵は弥勢増味方労して敗北す。敵兵競進
て南部領鹿角郡へ押入り境印に秋田領と石に彫刻して立置候事、其所今に切石と称す」。このように抜き難かった秋
田方の堅陣も、先鋒をつとめた八戸南部光経勢の奮戦によって同年二月九日ようやく撃破して境外へ退却せしめ
「凱旋揚て鹿角郡へ退陳して軍功を改め玉ふ」と伝えている。応永年間の秋田合戦に際し、鹿角が直接戦場とな
ったかどうかは定かでないにしても、郡内の国人も無関係でなかったことは容易に推察できる