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守行の頃の南部氏の勢威は強く、『吾妻むかし物語』永享年中和賀稗貫一乱の事の条に、「むかし永享七年(略
和賀小次郎と須々孫某確執に及び(略)其頃奥州の惣轄南部遠江守(略)軍勢を催さる、先糠部五郡、岩手、閉
伊、鹿角、比内、津軽三郡、両仙北、秋田、由利、雄勝、滴石、斯波を始め廿七郡の勢を催し十二月中旬岩手の
郡不来方の城に到着有てしばらく人馬の足を休る」とあり、南部守行の指揮下に鹿角勢も入っていたことを窺わ
せている。
秋田高寺合戦と鹿角
康正二年(一四五六)四月、出羽において再び南部氏と湊安東氏が衝突、世に秋田高
寺合戦といわれる。この戦いについて『南部史要』第十七世光政公の項に、「康正二年
八月秋田盛季鹿角を侵す、公自ら兵を率て出発す、時に葛西持信その弟刑部丞信敏をして公の軍を助けしむ、公
信敏を先鋒とし盛季を鹿角に討てこれを破る、盛季遂に秋田に走る、この役信敏戦死す」とあるのは、いかなる
史料に依ったものか。盛季は嘉吉三年(一四四三)松前へ逃れ、秋田湊にあるのはその弟鹿季、かつ盛季は応永
二十一年没、鹿季は同三十年没して共に亡く、この記事に信をおけない。
『岩手県史』は、葛西系図信敏の譜「信敏、高館四郎・刑部大輔ト号ス。康正二年四月南部庄司義敦ト秋田城
介合戦ノ時、南部方加勢トシテ彼地ニ赴キ羽州高寺ニ於テ討死、五十四」を引き、信敏の討死は南部方の敗退を
示していること、高寺は北に上淀川南に刈和野を控えた雄物川北辺の要地に位置することを説いている。
なおそれより五年後の寛正二年(一四六一)、ほとんど同様の合戦が起こっており、『岩淵氏諸系譜』の敏経
の項に、「寛正二年四月南部遠江守義敦ト秋田城介惟季接戦ノ時葛西持信南部ノ援兵トナリ敏経ニ領士ヲ率イシ