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メ羽州ニ往キ仙北郡高寺ニ会シ敗績シテ戦死ス三十一」と記されている(『岩手県史』)。偶然の符合なのか、ある

いは両者の混同なのかは明らかでない。いずれにしてもこれらの伝えからは、鹿角において『南部史要』のいう

ような盛季と雌雄を決する合戦があったとは思えない。しかし度重なる羽州仙北への進軍に鹿角を通過したこと

は十分あり得たと考えられる。

応永年間から南部氏が仙北郡に所領をもっていたことは確かだが、それが三戸南部氏であるか根城南部氏であ

るか明確さを欠いている。応永二十六年八戸根城の南部政光は、所領について次のような遺言状を書いている。

南部政光下知状

閉伊の飯岡)

八戸郷の内其外岩手之たいらたて山北之長野淀河へいのいいおかこのあひたのことく上をハしりののすけのはから

いたるへく候その内もち〳〵の所ハいらんあるましく候

応永廿六年八月六日

この下知状は政光の譲状代わりとも受けとられ、修理亮とは南部光経のことである。長野・淀河とその附近は

南部・安東両氏激突の戦場となった所で、やがて安東氏によって南部氏勢力は駆逐されていく。この南部氏が三

戸であるか八戸であるか或いは両南部であるかは別として、今問題にしたいことは、南部氏の永い間の領地であ

った仙北郡内の各地と所領維持の連絡をとるために、八戸あるいは三戸南部氏がどの通路を往来していたかであ

ク、鹿角郡がその連絡路の一つとして重要な役割をになっていたのではなかったか、ということである。

〓守(花押)(『遠野南部家文書』)