テキストを表示
東西の連絡路としての鹿角
寛正六年(一四六五)将軍足利義政が伊勢貞親に命じて南部産の駿馬を求めた
吋、南部時政との抗争で仙北小野寺氏が通路を妨害したので、庄内酒田の大宝寺
氏が兵を出し貢馬を京都に護送した(『南部家譜』『南部世譜附録』『親元日記』など)。このことから、南部氏が宝
町幕府への段銭や献上品を輸送する経路は仙北・平鹿経由であること、おそらく主として岩手郡雫石から峠越え
して生保内に至るかもしくは西和賀を経て横手地方に越える、二道のいずれかをとったものであろう。
しかしその道中に戦乱があった場合の脇往還として、鹿角経由の可能性も充分あったと思われる。年代はさか
のぼるが、貞和元年(一三四五)、出羽本庄に潜んでいた松汪光條が出羽から北川陣に参ずるに際し、鹿角郡白
根山の下を通り、「後傍々續巡而、鹿角郡内白根山元庵正空舎二躰密而土民之蔭ニ命齢寸」という因縁と、戦勝
の吉相として閉伊郡松山に築いた城館を白根城と命名、松江氏を白根氏と改めたとその系譜に記し(『白根系図』)、
鹿角通過のことを伝えている(『岩手県史』)。前述の応永十八年の仙北合戦や、康正二年の高寺合戦における諸書
の記述からも、鹿角を連絡路とした可能性は充分推測できる。
また、後の天正十四年以来数次にわたる加賀の前田利家との連絡経路は明らかでないが、同十九年の九戸争乱
に当たり出羽国諸将は鹿角を通過して浄法寺口へ攻入っている。即ち『戸沢家譜』光盛の譜に、「出羽国諸将ノ
鹿角郡ニ打入ル面々ハ惣大将最上出羽守義光、秋田城之介実季、戸沢九郎光盛、小野寺孫十郎光道(中略)等都
合二万五千余人、狭布ノ里錦木塚ヲ歴テ花輪ノ里ニ陳取ル、大手ノ相図ヲ待ツ処ニ八月廿二日最上義光ノ下知ニ
テ浄法寺口ヨリ攻入ル」という。