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鹿角が東西横断の連絡要路を占めるという性格をもっていたことが、南北朝から戦国の世へかけてのこの地域
の運命を大きく左右していたと思われる。
安東氏と小豆沢大日堂
八幡平小豆沢の重要無形民俗文化財大日堂舞楽を伝える大日霊貴神社(大日堂)に、
次のような棟札の記録がある(『大日堂由来記』『大日堂故実伝記』)。
長禄四年八月六日
堂鐘成就大旦那安倍師季別当沙弥藤原浄通
治工若州遠敷郡小南金屋鋳之
この梵鐘は寛文六年(一六六六)の火災で亡失したといわれ、現存はしていない。安倍師季は安東庶季と同
人とすれば、下国家安東盛季の弟鹿季のことで、応永元年秋田城之介を追い秋田の湊城に根拠をおいた湊安東氏
の祖、応永十八年(一四一一)南部守行と仙北郡刈和野に戦った。この棟札から、当時秋田安東氏の鹿角郡への
勢力扶植があったとされている。その後も安東氏は秋田地方に盛んな勢いを示し、鹿季の孫惟季は南部氏と康正
二年と寛正二年に衝突していることは前述の通りである。
しかし長禄四年(一四六〇)は鹿季の没後三十七年を経ていて、年代が合わない。或いは師季は湊安東氏では
なく、嘉吉三年(一四四三)南部義政に敗れ蝦夷地へ逃れた下国家安東氏の一族でなかろうか。安東氏系図にそ