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)のことは『南部家系譜』政盛の譜に、「奥州鹿角郡小豆沢郷大日堂就破壊別当養老山喜徳寺訴之、文明十八

内午年修復之(後略)」とみえ、『聞老遺事』にも右の棟札が同じ内容で記されている。三戸南部家第十五代とい

う政盛の没年については疑問のあるところで、『南部家系図』等は「文安二乙丑歳九月二十四日卒寿六十七

としているから、文明十八年はその四十二年後に降る。『内史略』南旧秘事記・前之巻一に「一、二十一代修理

大夫信義公鹿角小豆沢大日堂破壊に付別当養老山喜徳院の訴に因て文明十八年丙午歳御修覆有り」と載せ、『同

書』奥南旧記抜萃には第二十代信時の時として「一、信時(中略)小豆沢大日堂破壊に付」云々とし、註記して

此事信義公又政康公ともあり、左にあらず全信時公の御時也」と筆を加えている。信時は文明十五年三月通継

卒去の跡を継ぎ、同十八年はその治下にあった。

実はこの棟札の実物を見ると、記録とはかなりの部分が異なっている。とくに旦那名の個所に訂正を施した跡

がみられ、その右上の「大旦那源朝臣政盛公」と記した墨色は明らかに他と違い、札文字全体のバランスからい

っても後世の異筆と思われる。三戸南部氏の鹿角支配の年代を古く見せかけようとする権力の手による改竄があ

ったものであろう。棟札は、逆に文明年間の鹿角四氏のうち丹治姓安保氏の健在を伝えている

かつて、この棟札から推して南部氏の勢力が当時鹿角に深く滲透していたと説かれ、南部政盛が文安二年(一

四四五)鹿角に退隠した(『南部史要』)との一部の伝えもあるが、その場所は不明でこの時点に南部宗家の隠居

が平穏に住めるほど三戸の勢威が鹿角に定着していたかどうか疑わしい。なお『岩手県史』年表は文安二年九月

政盛卒すとしている。