テキストを表示
文治五年頼朝公奥州征伐ノ時伊達次郎泰衡従兵ニ鹿角近作ト云者大木戸ニ討死ストアリ何人ナルヤ不詳、右征伐軍功
ヨリテ甲斐源氏武田一族浅利与一義遠ニ鹿角郡地頭職ヲ給フ、其男浅利六郎知義下向鹿角ニ住シ三代浅利太郎義邦ト
イフ、応永ノ頃ヨリ国人郷士等皆一家ヲナシテ浅利大ニ衰ヒ秋田城介鹿季ヲ頼ム、国人等ハ南部守行公ニ服従シ争戦アリ
浅利敗走シテ秋田ニ行キ永ク臣下トナル、其後秋田ト南部公ト鹿角並羽州比内ヲ争ヒ接戦アリ
近世の南部藩史が、鹿角は文治五年以来南部光行が頼朝より賜った南部領であると公称していることを思えば、
当時としてまことに大胆な叙述というべきで、鹿角郡はその文治五年から南部守行に至るまで浅利氏の所領であ
ったとしている点が注目される。しかしこのことには浅利系図その他に何ら明証となるべき記載がない
また『鹿角古事記』に「一、比内の主浅利の御所ハ鹿角の湯山ニ御座成され候夫より比内を切明申候其時の奉
行ハ山城片山川口等三人也」とも記されているが、鹿角の湯山に該当する地名は明らかでない。奉行の山城・片
山・川口からみて、天文以降と思われる。
比内浅利氏は、永正年間甲斐国から移った浅利則頼の合流により、十孤城に本拠を置いて再び勢力を盛り返し
た。則頼は天文十九年(一五五〇)十孤に没しているが、一時鹿角にも版図を広げた形跡があり、下記のような
分限帳が伝わっている。
天文十九甲子年改御在:
天文十九甲子年改
御在城
両比内鹿角郡浅利与市正則頼公家中知行附分限
、嫡子同佐京頼平
一、高弐万五千七百石浅利与市南比内十孤内館ニ
、高五千石浅利民部勝頼則頼公御舎弟
}、出入