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扇田長岡之城主
一、高五千石浅利勘兵衛中野村住居ス
、高五百五拾石浅利及蘭八木橋村ニ住居ス
一、高五百石浅利治良吉花岡村住居
右三一家衆
家老
一、高五百石片山村ニ住ス片山大膳
一、同三百五拾石花岡村一ノ関ニ居野呂左馬之助
一、同三百五拾石新田村ニ住居川口安藝
一、同三百石十孤村ニ住居大嶋長門
右四人ハ家老にて鹿角郡支配預ル
(中略)
鹿角郡扱役人
一、高百石新田大学
一、同八拾石三橋九左衛門
、同八拾石野呂六兵衛
一、同弐百五拾石十二処ニ住居十二所信濃
一、同八拾石杉沢数馬
右五人ハ御足軽同心拾人宛鹿角江召連小豆沢
大里押へ御番代り
鹿角郡御目付
一、高五拾石山田村ニ住山田喜左衛門
一、同五拾石花岡村より棚内勘解田
一、同四拾石同村より白瀧但馬
一、同四拾石山田村より蟹沢庄兵衛
一、同六拾石花岡村より藤森丹後
右五人三十日代りにて
(下略)(『尾去沢川口家文書』)
浅利則頼分限帳のうち鹿角関係分のみを掲げたが、これにみる限り浅利氏の勢力は郡南小豆沢大里地区に伸び、
鹿角支配の家老、専任の鹿角郡扱役人や目付が置かれていたこととなる。しかし天文十九年改とするこの分限帳
が刈数制ならぬ石高制で記載されているところから、この文書が少なくとも慶長以後のものであって、どの程唐
信憑性を持つか疑わしい。則頼が比内に覇を唱える過程で、鹿角国人との間に軋轢を生じ兵火に訴え一部を一時
占領した時期があったことは充分推測できることである。