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三、南部氏の鹿角進出
毛馬内氏の入部
三戸南部氏が鹿角郡に勢威を振うようになったのは、いつの頃からであろうか
岩手県史』は「津軽諸郡は、嘉吉三年(一四四三)頃から南部氏の勢力下にあった形跡が
あり、鹿角郡が南部氏に制圧されたのもそのころであろう」としている。嘉吉三年十三湊に本拠を置いた下国安
東盛季は、南部義政の津軽侵攻に敗れ蝦夷力島松前の地へ去った。三戸と津軽の連絡路には北の野辺地口と、中
間の七戸口と、南の鹿角口があり、南部氏にとって鹿角の重要性は、対秋田安東氏との接触点であるのに加えて、
津軽維持のためにも欠くべからざるものになっていた。
祐清私記』御家菱備之事の条に、「十四代守行公之時鹿角郡安保氏より御取合確執之節羽州秋田氏と御合戦
有り(中略)津軽・鹿角方御合戦之時は八戸氏一ノ手先に御座候由、岩手方エ御合戦之時は九戸氏一ノ手先之由.
云々とある。「安保氏より御取合確執之節」の具体的な状況はわからないが、前出の『三翁昔語』にある守行が
秋田庶季との間に鹿角郡の争奪を行なったという伝えに符節が合うかもしれない。
この時点で鹿角に大規模な合戦があったかどうか疑わしい点もあるが、少なくとも従来から固定観念のように
言いならわされてきた、文治五年または建久二年南部光行入部以来鹿角は南部氏の領地という誤まりは是正され
なければならない。三戸南部氏十三代といわれる守行の時代は、北は津軽、南は閉伊・岩手郡、西は仙北郡まで
勢力が及んだので、おそらく鹿角郡もこの時期から南部氏の強い影響力もしくは支配力を受けるようになったの