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てゆるやかに御攻取り然る可く候鹿角は我々持の寄合勢に候得共是れ豊饒之地にして其城は堅固に兵多く武辺
手馴れに候得ば只一方より攻入り候事は雌雄分ち難からんか岩手は我々持の地侍兼地にして居城も不堅固に候
得ば先ず岩手に御手入遊ばされ手初めよくば其勢に乗じて脇々をも御責め然る可く候」(『祐清私記』)と意見を
述べている。
その評価のなかに鹿角の情勢がよくあらわれ、天文十年前後と思われる当時において一旦は南部氏の威令に屈
しても叛服常なく、諸豪分れての寄合勢だが武事に馴れて手ごわい存在であるから、挾み撃ちにでもしない限り
勝負はつけ難い、というあたりに多数の館に分拠する鹿角地士の面目が窺われる
従ってこの時点の鹿角は、南部氏の隣境であってもその領地ではなく、南部氏の命に服する「我々持の寄合勢」
であって、一旦手違いがあれば雌雄分ち難からん程の手ごわさをもっていたのである
四、永禄の合戦
秋田愛季鹿角を侵す
水禄に入って、桧山城主安東愛季が鹿角を窺い、南部・安東両勢力の軌轢の間に立っ
に鹿角地士の去就には複雑なものがあった。桧山安東氏の舜季の子で、湊安東氏の堯〓
の娘を母にもつ愛季は、やがて湊家を合わせ、比内浅利氏を屈服させて、その武威は隣境を圧する勢いであった。
まもなくその鉾先は鹿角に伸び、はげしい攻防戦を展開することになるが、近世の史伝書はこれを「桧山陣」
(『鹿角由来集』)とよんでいる。この戦いは概ね次のような経過をたどった。