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永禄元年(一五五八)夏、愛季は浅利氏に命じて、反南部派の鹿角地士との会見を実現させた。浅利氏は則頼が天
文十九年(一五五〇)十孤城に没しているので、この時は長子則祐の代となっていたが、この則祐も永禄五年に愛季
に攻められ長岡城で自害することとなる。会見に応じたのは大湯、小平、柴内、花輪、大里の五氏で、会見場所は〓
内側の「中のたい」、酌に立った小枝指小次郎は安東方大高筑前より引出物に脇指を贈られた。大湯、小平、小枝指
各氏はいずれも奈良氏で、柴内、花輪、大里各氏はいわゆる安保三人衆である。史伝書には、ことさらに鹿角侍が愛
季側の加増条件や音物に誘われ節を曲げて内応したかのごとく伝えられているが、当時の情勢から、鎌倉以来父祖相
伝の地として守り続けてきた鹿角に、南部氏が郡北の毛馬内、郡南の長牛・谷内・石鳥谷各館にそれぞれ一門を配し
たことは、郡内に一層の緊張感をもたらす結果となった。こうした南部氏の動きを侵略とみなして、伝来の故地を守
るために西隣の勢力安東氏を利用しようとする党派の出るのは、自然の成行きであったといえる
永禄八年七月頃、桧山方からの廻文に安保衆と大湯・小平氏が加判したのに対し、石鳥谷・長牛・谷内・小枝指・
毛馬内各氏は加盟を拒んだ。小枝指氏だけが奈良系(小枝指系図は安保氏とする)の地士で、他は南部氏派遣の家十
なので当然のことであった。「先祖ノ家督主君信直様に逆心仕り間敷」(『鹿角由来集』)とある信直が封を襲ぐのは
後年の天正十年(一五八二)で、この時期は晴政の世子に迎えられたばかりである
秋田勢の鹿角侵入を「長牛系譜」や『奥南落穂集』は永禄八年とし、『聞老遺事』は同九年としている。『鹿角那
旧記』によると、愛季は九年三月を期して出陣すべく麾下の諸将に令していたが、春より霖雨しばしばあって米白川
洪水のため見合わせ、八月末ようやく天候回復したのを機会に押し寄せた。寄手の猛攻に石鳥谷城は陥落し、城方は
長牛城に退いてこれに拠った。