テキストを表示

第三節南部・浅利・秋田諸氏の鹿角侵入

長牛城

長牛城には一戸支流を中心とし、そのほか長内・三〓

田・夏井・熊沢の人数が籠った。これら周辺の地士は反

南部の途を選ばず、南部方へ合力することに相伝の地を

守る望みを繋いだものであろう。城方の苦戦に、岩手・

一戸からの援軍が相次いだが、悉く寄手勢に敗れ逃げ帰

らざるを得なかった。『聞老遺事』は「三戸ヨリ岩手・

出頭・松尾・沼宮内・一方井・堀切・平館・厨川ヲシテ

援シメ玉フ然モ毎戦我兵利アラズ」と表現している

永禄十年二月末の戦いは城下の小川が蘇芳のように赤

く流れる程すさまじく、主将長牛政義の弟与九郎政武が

討死をとげたと伝えられるが、「長牛系譜」によると政

武は「永禄十一年二月討死」となっている。一説にこの

与九郎政武は、紀州熊野実報院の旦那名録『米良文書』

天文七年七月十一日付にある奥州一戸住人八名のうちの

南部与九郎なる人物と、同一人であろうともいわれてい

る(森嘉兵衛『南部津軽の抗争』)。『鹿角郡旧記』には

信直は相次ぐ敗戦に意を決し、北・南・東・西越四氏を