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り南部方に属していた小枝指氏は、敗戦して津軽へ落ちたが呼返され本知小枝指村を安堵された。小豆沢大日別当刑
部左衛門兄弟については、大日別当妙光院「寺社由緒世代書上之事」のなかに述べられている
五代三位坊秀安
右者嫡子刑部親師ニ仕、沙弥秀安と被成親跡被仰付三位坊と申住職仕、大守信直公御代永禄十一年同郡長牛陣之時
御先達被仰付兄弟被出忠之働仕候故、永ク御祈祷所ニ被仰付候由、死去年月等相知不申候、且御鑓拝領仕候弟宮内
右之依忠同郡湯瀬村領地ニ被下置、御奉公仕候由
この永禄合戦について、『奥南落穂集』は政義父子が三戸へ撤退したあと南部氏は三戸赤石館主の桜庭安房守光康
を鹿角に出張させ、秋田安東氏を退け郡内を平定したと伝えている。また永禄九年、江刺郡岩谷堂城主江刺冶部大輔
輝重も、南部方の援軍として三百人を派遣したという。『江刺氏系譜』には次のようにみえている。
「輝重治部大輔、永禄九年羽州秋田守護下国近季私謀ヲ企テ南部領鹿角ヲ略セント欲ス南部守護三戸城大膳大夫信
直兵ヲ鹿角ニ遣シ防戦十余回、然リト雖モ信直ニ利非ズ、輝重之ヲ聞キ家士栗生沢治兵衛、鶯沢藤一郎三百人ヲ引率
ン救ヒニ往ク時ニ秋田近季敗北ノ由途中ニ聞キ、乃チ兵ヲ旋ス蓋シ輝重懇交之親有ルヲ以テ此ク及ブ也」(『汀
刺郡志』所載)
永禄合戦は諸書・諸家譜の記述によってまちまちな点がある。安東愛季鹿角来攻の年を前述のように『奥南落
穂集』等は八年としており、『岩手県史』年表も永禄八年七月をとっている。一方『南部五世伝』『聞老遺事
鹿角由来集』等は九年七月とし、『秋田県史』年表にもこれを九年七月としている。南部氏が鹿角より安東氏