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勢力を駆逐した年についても、二説がある。『岩手県史』は『参考諸家系図・長牛系図』の「永禄十一年三月世子
信直公御出陣ニ先鋒トナリテ七時雨路ヨリ入テ近季ヲ討」をとってその年表の十一年の頃に入れ、『秋田県史』
は『南部世譜附録』『聞老遺事』等によって十二年に入れている。
戦況において疑問なのは、その主戦場が郡南であったことによるものか、諸書を通じて本来南部方の主力とな
るべき毛馬内氏が沈黙を守っているかにみえることである。前記『鹿角由来集』の永禄八年秋田方の廻文に加判
せざるもののなかに「小枝指左馬助、毛馬内」とのみあって、その後の攻防経過の中には勿論、終末段階の信直が
来満山を越え大湯村に出陣した際にも小豆沢別当兄弟先達とのみで、毛馬内氏の動きについて全く触れるところ
がない。森嘉兵衛『九戸地方史』は、『南部系図』晴政の項に、
加シテ秋田近季屡々鹿角ヲ窺フ、秀範毛馬内城ニ在ルヲ以テ其志ヲ得ズ、永禄元年伴リテ款ヲ我ニ納ル、而シテ陰ニ鹿
用ノ地士ヲ招誘ス、八年地士其徒ヲ以テ秋田ニ出奔シ、郡中大ニ擾ル、晴政乃従弟田子信直ヲシテ之ヲ鎮セシム云ク
とあるのを引いたあと、「永禄八年秀範秋田に内通叛乱す」と記している。同氏は別著『津軽南部の抗争』にも
同じ内容のことを述べているが、その根拠を後述の『秋田実季覚書』においているように思われる。
五、天正の戦乱
津軽の騒擾と鹿角
水禄合戦が終わったあと、南部氏に反抗した鹿角地士へどんな制裁が加えられたかにつ
いてはあまり明らかでない。むしろさしたる報復をうけることがなかった模様で、大湯