テキストを表示

也

殿也シラ、コレラヲシタガエ礼ニキタリ、仙北ハヨトカハヲ切取」の記載がある。『岩手県史』にしたがえば、

この覚書は安東愛季老後の口述書と推定される。愛季は天正十五年九月まで存世し、雫石斯波氏の滅亡は同十四

年九月であるから、それ以前を述べた記事である。花輪ハウキノ守は伯耆守親行のことで、その没年も九戸郡円

子村へ退去した年も分っていない。ナマナイ殿を初代の靱負佐信次とすれば天正十三年卒、二代が権之佐政次、

その弟が三左衛門直次で直次の室は大湯五兵衛昌光の女である。カシラ也とあるのは、毛馬内氏は南部一門とし

て鹿角諸士の旗頭的立場にみられたからであろう。いずれにしても天正中、花輪・毛馬内諸氏が斯波氏とともに

秋田湊の安東愛季の許に款を通じたことがあった模様である。森嘉兵衛氏は、前述したようにこの記録は永禄九

年から同十一年の間のことをさしていると考えられる(『津軽南部の抗争』)としている

信直の襲封

(正十年正月、晴政・晴継の相次ぐ死去により、田子九郎信直が推されて宗家を継いだ。この

〓封に反対する九戸政実を中心とした党派は、その後も三戸城の信直に対抗する動きをみせ、南

部氏の政情は引続き安定を欠くものであった。その前の天正九年六月に、津軽石川城に在った南部高信が病没し、

津軽諸郡の形勢も混沌たる様相を呈してきた。津軽郡代をその子政信が継ぎ、大光寺左衛門佐光親・浅瀬石隠崎

政吉・大浦右京亮為信が補佐したが、浅瀬石隠岐はまもなく卒し、大光寺光親は大浦為信の策謀にかかり比内に

走った。

この前後と思われる時期に、津軽の緊迫した状況を伝える浅水城の南弾正少弼慶儀状がある

「送而申入候此さかひ不調ニ候ては津軽之儀於末代あひすたるべく候(中略)然者七戸へ銕〓御合力之由承候而可然