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存候浜口之時宜被聞召候者御到来承度存候鹿角口之義如何共聞得不申候大浦之事ハ少乙之様ニ申成候左候ハン
には横内可有如何候哉御等輩中被仰合候而可然候三戸には郡中我々存分之様ニなく候事佗言ニ被存候無底意御
談合由可為専一候恐々謹言
六月六日慶儀(花押)
この書状は宛名を欠くが、一連の八戸氏宛書状のうちの一通である。年代は天正七年から同九年あたりのもの
と判定される(『岩手県史』)。この境が不調では津軽の恢復は末代まで覚束なくなる、七戸口へ鉄砲隊応援の由承
った、鹿角口についてはどうなったとも聞くことができないでいる、津軽大浦のことは「少乙之様」になったよ
うである、と局面を憂慮している様子が伝わってくる。この書状から津軽固守のため野辺地口や七戸口とともに
鹿角口においても何らかの作戦が展開されていたことが察知できる。
しかし一方この書状を「天正十五~十七年頃とみるべきであろう」とする説もある(森嘉兵衛『九戸地方史』)。
それは「鹿角口の義如何共聞得申さず候」といっているのは、大光寺光愛が大浦氏と衡突して比内に出奔し、や
がて大館城へ南部勢を誘導したその時期をさすだろうという判断に基づくものである。
天正十一年、南部信直は志和野大萱生城を攻撃し、この戦陣に鹿角郡の長牛縫殿介友義が弟彦六とともに参加
したが、長牛彦六は戦死している(『長牛系譜』)。
比内もまた秋田愛季の侵略が着々と進み、秋田側記録では天正十一年三月浅利義正が愛季と和睦の上桧山での
酒宴の席で謀殺され(『新羅之記録』)、浅利側記録では天正十年浅利勝頼が愛季のため比内長岡城において謀殺