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信直、秀吉へ通款す
大正十五年春、信直は関白秀吉への執成しを頼むため、重臣の北左衛門尉信愛を名代
こして前田利家のもとへ遣わした。北信愛は進物の鷹三十一居を携え、二月十日三戸を
出発し途中戦乱のため所々を遠まわりして四月二日ようやく金沢へ到着した。その間五十余日を要し、どの経路
をたどったか分らないが、帰途は能登から船で庄内の酒田へ着き、赤尾津から仙北へかかって南部へ戻ったと信
愛自筆の覚書にある。往路もおそらくそれに近い道筋であったであろう。
天正十七年十一月、秀吉は小田原攻めを宣し、全国諸大名に小田原参陣を通告した。信直は当然その命に従う
決意をしたが、出陣中津軽や九戸に背後をつかれる虞れが十分あり去就に迷って懊悩した。時に八戸政栄の「嫡
家の付庸となり嫡庶両方の長久を保つにしかず」留守居を守って粉骨後顧の憂いを絶とうという力強い申し出を得、
四月十九日手勢を引き連れ三戸を出発して秀吉の許へ参向した。『南旧秘事記』には、「然して信直其子彦九郎伯
父南遠江守長義を携へ、前田利家の使者内堀四郎兵衛を嚮導として三月下旬南部を発し、兵革の時節故所々道を避
て田子より浄法寺に出、鹿角比内を歴る所に津軽為信か鞍覆等皆杏葉の金紋を附来るに遭う」。この遭遇の地点
を『奥南落穂集』は、「(為信が)津軽郡四万五千石ノ安堵書ヲ賜リ従五位下右京亮被成下、首尾残ル所ナク調ヒ帰
国ナセシニ羽州酒田辺ニ於テ信直公小田原参陣ニ行キ逢ケル」とし、この時信直は討って取らんと思ったが、南
長義が云うには為信は近衛家に取入り杏葉の紋を賜わったと見える、ここでなまじ闘争に及べば秀吉公の思召し
もどう変わるか、切に慣りを押えるこそ分別と諫めたので事なく過ごし、越後信濃を歴て武州前田氏の陣営に至
たと述べている。その後暫くの間前田陣営に留まっていたと思われ、為信との出合いなど後世の記録のことと