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てどこまで真に近いかわからぬが、世にいうわずか三日の差で父祖経営の津軽六郡合浦一円の地を為信領と定め
られた忿懣がよくあらわれている。
その以前大浦為信もまた秀吉の許へ伺候すべく津軽を出発したが、途中悉く南部氏、秋田氏に阻止されたと伝
えられる。『工藤家記』に、「天正十五丁亥年六月小田原へ御進発可被遊、此度ハ陸地御登りニテ平内小湊口ヨリ
南部鹿角迄御出被遊候処、南部家意恨ニ依テ領内人馬相支且止宿ノ義堅制ノ旨ニテ御宿無之、不得止事其夜名杭
ト申処ニ野陣ヲ被張翌朝天狗橋ヨリ御帰被遊」とある。同様のことが『館越記』にも記されている
ともあれ三戸南部氏にしても津軽氏にしても、非常な難局のなかにありながら時代の大勢を明敏に捉え右顧左
晒することなく豊臣政権に馳せ参じたことが、近世大名として生き伸びることのできた数少ない幸運者になりお
おせる原因であった。また南部氏の前田氏との往来、津軽氏の上洛路、小田原参陣の経路として、まず鹿角路が
浮かびあがってくることに、古来伝統的な交通要衝としての郷土の側面を考えざるを得ないのである
信直、斯波氏を滅ぼす
大正十四年九月、南部信直は岩手郡滴石城を攻め雫石斯波氏を滅ぼすなど、南進政
策を合わせ進めていた。斯波氏宗家高水寺城に九戸政実の実弟高田吉兵衛康実を女婿
に入れたが、間もなく確執が起こり高田康実は斯波家を出奔、信直はこれを岩手郡中野城に居らしめ中野修理亮
直康を名乗らせた。のちに鹿角郡花輪館を預かる中野南部氏の祖である
かくして斯波氏攻略の策が進行し、その一環として信直の臣四戸久助が志和郡乙部村に十三人の同志を潜入さ
せ同地の地士達を南部へ服属させるべく画策しているが、四戸の同志に四戸十郎、四戸与九郎、天満館五郎、蓬