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田作介、大湯中務、七戸彦七、浄法寺宮助らの名があげられる。大湯中務の経歴は分っていないが、鹿角地士の
一人であることに間違いなかろう。
同十六年秋、斯波氏と戦端を開いた信直は自ら陣頭に立ち、岩手郡諸勢を先鋒として本陣を陣ヶ岡に張ったが
人心の多くは既に斯波氏を去っていたので高水寺城はまもなく陥落した。ここに奥州の探題家、足利一門の名家
として二百余年に亘って繁栄した斯波家は遂に滅亡した。
この斯波氏の直系が、北氏の客分となってのちに鹿角郡大湯村に下り、汲川氏を称して現在に至っている。北
氏の家伝にも、北氏の先祖が高水寺斯波氏を客分に迎えて鹿角郡大湯館の新城にかくまい明治初年まで扶助した
とあり(紫波町教育委員会『大湯汲川文書調査報告書』)、現在でも土地の人々は汲川家を新城とよんでいる。『汲
川家系』によると、陸奥守家長の子孫代々志和一郡の領主となり、大蔵太夫明元の時志和落去し小軽米に隠遁、
北氏の厚意によって三十石の扶助を受けていた。佐左衛門助久の代北直継に対し、何の功もないまま遊客同様の
処遇を受け続けることも心苦しく、「御家来同様ニ候召仕エ成下サレ度キ旨度々申上候得共、御思慮之上御意成シ
下シ置カルル之旨尚又日ヲ追テ申上候処、然ラバ家来同様客分タル可キノ旨仰出サレ、翌日御目通之節性ヲ汲川
ト下置カレ北之流ヲ汲ムノ心得ニテ改ム可キ御意下置カル」(『汲川家系』)と伝えている。
寛文五年(一六六五)北九兵衛宣継が小軽米より大湯村へ知行替ののちは汲川氏は代々大湯にあって北氏家老
職用人職を勤めてきた。『参考諸家系図』『奥南落穂集』等に、斯波孫三郎詮基が利直に仕えて五百石を賜わり
大阪の役に出陣したとあることとどのような関連をもつのか、詮基は戸部系図や汲川家系にいう明元と同一人物