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南部勢比内大館城を攻略
津軽地方の情勢は、天正十六年大光寺左衛門佐光親の大光寺城徹退、波岡彦次郎
以信の急逝等によって南部氏の勢力が潰滅的打撃をうけ、代わって大浦為信の津軽
制覇が着々と進行していた。
比内浅利頼平は一旦津軽へ逃れ、秋田愛季に奪われた旧領を回復するため大浦為信の援助を受けつつ屡々比内
に攻め入った(『坊沢長崎文書』)。『津軽一統誌』によると、天正十四年九月為信は比内に出るため初めて碇ヶ関
道を開き「矢立ノ杉トイフ大切所ヲ切リ通リ数ノ谷峰ヲ経谷川ニ添岨ヲメクリテ比内郡へ打出」たという。この
時点においては愛季と為信は浅利氏をめぐり確かに敵対関係にあった。しかし前掲の天正十三年とみられる大湯
氏宛秋田愛季書状などは、むしろ大浦氏に有利となるよう南部氏の転進を大きく牽制しているとしかうけとれず
戦国大名の謀略が虚々実々に入り乱れる有様を読みとることができる
天正十七年(一五八九)四月、南部勢は鹿角郡より比内郡に侵入し大館城を攻略した。前々年の十五年愛季ぶ
卒去し、その嗣子若冠十二歳の実季が一族湊通季と争っているその間〓を衝いたものである。すなわち先に比内
郡山田村に潜居していた大光寺左衛門佐光親が、大館城主前田下総の死去を知り不意に襲ってこれを陥落せしめ、
信直に報じた。南部氏はこれを受け、浄法寺修理・大湯四郎左衛門を嚮導とし兵五百をもって大館城に入った。
この比内合戦について、元禄期に書かれた『奥羽永慶軍記』南部信直秋田比内を攻るの事の条を要約すると、
イ、南部信直の女を大館城主秋田忠二郎実泰に嫁がせた時婿引出物として鹿角郡三百町を付けたが、実泰夫婦が卒し
た後信直方がその所領を取返した。ために信直と実季が不仲になり、信直は実季の仙北小野寺氏と戦っている虚を