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角に引揚げることができた。実季はこの勢いで鹿角まで攻入らんとした所へ、小田原御陣触れの旨湊より飛報があっ
たので、比内に一門老臣を残して湊城に帰陣した。
以上は『奥羽永慶軍記』の関係部分のごく概略を述べたものである。同軍記の史料的価値について批判もある
が、他に『秋田藩家蔵文書』『聞老遺事』『奈良岡文書』等の傍証があるので、この争奪戦はまさしく両者にと
って戦国掉尾を飾る激突であったのであろう。
ただし同軍記にはいくつかの誤伝が含まれており、例えば信直と実季不和の原因を秋田忠二郎への婿引出物鹿
角三百町を取戻したためとしているが、実際は信直の女と秋田忠次郎英季の婚約が成立したのは後年の文禄元年
(一五九二)のことで、文禄四年英季十七才となって八月輿入祝言日を決めていたが、秋田氏と浅利頼平の間が
悪化し擾乱が起こったため、同年暮まで延期になった。忠二郎英季は間もなく病没し、信直二女は三戸へ帰り桧
山御前と呼ばれ、同町長栄寺に墓がある。
この合戦において大館城をめざした南部勢の攻め口も退け口も、花輪、西道、白根、赤沢、黒沢、大明神の線
となっている。鹿角から白根山(小真木山)の国境線を北上して比内領赤沢へ出るか、瀬田石から西進して赤沢
へ越えるか、あるいは大地から札立場を経て黒沢へ至るかなど、いずれにしても西側の山並みを越えて長木沢へ
降り、長木川の溪谷伝いに茂内から大館へ出るのが古くからの比内往来路であった。この国境線は近世に入って
南部・佐竹両藩の重要な論争点となり、後年の延宝五年(一六七七)に至ってようやく幕府の裁断を仰いで決す
るに至る。