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(『秋田藩家蔵文書』)
又中、九平九郎とは、南部九郎信直のことと思われる。大湯五良兵衛は五兵衛であろうか。加成右馬頭は大阿
〓加成常陸介の子息である。『聞老遺事』『南部根元記』等は天正十八年のこととしているが、もはやその時期
は既に奥羽諸氏が続々と秀吉の小田原陣に参着しつつある時期であった。
聞老遺事』に、「北信愛相対阪ニ退ク、敵又之ヲ追イ外ニ援兵ナク疲兵ヲ以テ鋭兵ニ当ルコト能ワズ甚ダ危
ク既ニ敗走ノ色アリ、北弾正之ヲ見テ忽チ横撃シ数十人ヲ斬テ遂ニ戦死ス、其臣討死スル者十三人」として、そ
の十三人の氏名をあげている。同様のことが『祐清私記』羽州比内郡明神之事の項にも見られ、その討死の場所
を比内郡山田の辺りとし「右十三人是愛季家中ニ而南部十三騎明神と崇メ社を建置」と述べている。同じ伝承が、
南秋田郡五城目町神明社境内の十三騎神社にもある。『秋田六郡郡邑記』に「昔南部の士十三人来り切腹す、其
の霊魂止って怪をなす、里人祠を建立して其の霊を祀る、其の後怪なし」と記されているが、北弾正の遺臣佐々
木監物が同町泉蔵院の養子となった(『五城目町史』)因縁に由るものといわれる
大光寺氏花輪を領す
南部氏を比内占領へと導入したのは、大光寺左衛門佐光親(のち正親)の功に由るも
りであった。『郷村古実見聞記』鹿角郡代之事の項に、「天正八庚辰年十月信直公ヨリ
大光寺左衛門光愛三千八百石下置かれ候て鹿角郡花輪尾去石鳥谷三ヶ田夏井五箇村也」とあり、光親は
花輪城を与えられ比内秋田氏との領境を守ることになった。なお天正八庚辰年は前後の状況からみて天正十八庚
更年の誤りとされている。『参考諸家系図』大光寺系図正親の譜には、「天正中鹿角郡花輪城代となりて之に居、