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ここで問題となるのは、鎌倉以来の旧族といわれた、花輪在住の地士花輪氏の去就である。永禄合戦に当たっ

ては秋田方に一味し、前出の鹿角花輪伯耆守らが愛季の許へ参じたことを述べた「湊合戦覚書」が『岩手県史』

の説くごとく天正へ入ってからの可能性があるとすれば、その後も折にふれ露骨に反南部の行動をとっていたと

思われる。永禄の終戦によってさしたる重い処罰を受けなかったのはなぜだったか、間接的表現ながら『岩手県

史』が先の「覚書」に関連し「南部晴政の天正十年卒去と、晴政信直の軌轢を想い合わせると、秋田愛季の鹿角

第三節南部・浅利・秋田諸氏の鹿角侵入

仕南部晴政