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給され、九戸村長興寺の大名館より移ってきたものと伝えられる
天正十七年の春は、南部勢が比内郡において秋田勢と大館城争奪にしのぎを削っている時期であった。『奥南
旧指録』はその年を天正十六年としながらも「大光寺は(五丁目の同心を)幸と悦び大湯四郎左衛門を頼み此旨
三戸へ訴御勘気御赦免を頼ける(中略)其後御出馬を通じければまづ浄法寺修理・大湯四郎左衛門等を先手とし
て(中略)比内に押寄大楯を圍む」などと記している。このような情勢のなかにあって、大湯・大里・円子各氏
の鹿角侍が前記のように「十七年ヨリ宮野城ニ籠り日々合戦止ム時ナシ」という態度を示していたかどうか疑わ
しい。しかし一時占拠した大館城を間もなく撤退せざるを得なくなった事情の蔭には、このような九戸政実一党
の反抗があったのも確かなことである
信直の小田原参陣
大正十八年正月、信直は八戸政栄を陣代として津軽へ兵を進めたが、既に津軽を制圧し
ゝいた大浦為信勢の抵抗が固く苦戦を強いられ、目的を果せぬまま小田原参陣のため撤退
を余儀なくされた。その前年の十七年十一月、豊臣秀吉は九州征伐後天下統一の完成をめざし関東小田原の北条
氏に宣戦を布告し、中国・四国・北陸をはじめ諸大名に総動員令を発した
この措置は「秀吉は早くから〔関東八州・出羽・陸奥、面々分領〕の紛争を豊臣政権のもとで裁定するという
方針を公表していた(『真田文書』)。すなわち北条誅伐は初めから関東・奥羽の豊臣化をめざす総動員令であ
ったのであり、この体制のもとで奥羽の大名領主たちだけが小田原参陣を免かれる余地はもはやありえなかった」
『中世奥羽の世界』所収藤木久志氏論文)ことを意味し、事実その後奥羽諸大名のうち小田原に参陣した者は