テキストを表示

南部七郡は三戸・二戸・九戸・北・鹿角・岩手・閉伊である。秀吉の奥羽仕置の原則は右の朱印状にも明記さ

れているように、一には大名の妻子は在京させること、二には家中の持城はすべて破却させ一領主一城を残して

家中妻子をその城下に集め中央集権の態勢を固めることであった。三には各領主に検地を行なわせ、その知行高

を明らかにして豊臣政権の軍役体系に組みこむことであり、かくて戦国大名達の独立性を奪うことであった。

二、奥州仕置

奥州仕置の進行

奥州仕置の総帥は中納言秀次で、信直は浅野長吉(のち長政)勢の先導をしつつ、奥州仕

直軍の一員として和賀・稗貫に至り、南部家一門の北信愛父子は前田利家等の出羽仕置軍の

先立として津軽地方に至ったと伝えられる(『奥南旧指録』)

秀吉は八月九日会津に到着、小田原に参陣しなかった大崎・葛西両氏、あるいは和賀氏・稗貫氏・柏山氏など

の領地没収、居城追放など、敏速に奥羽諸大名の仕置を決定し、同十三日には帰還の途についている。浅野長政

は奥北仕置に発向するに当り秀吉より次のような指令を与えられた。摘記すれば、「其許検地之儀、一昨日仰せ

出されの如くに候、斗代等之儀、御朱印之旨に任せ、何も所々、いかにも念を入れ申付く可き候、若そさうニ仕

り候ハバ各越度と為す可く候事」「一、仰出され候趣、国人並百姓共ニ合点行候様ニ、能々申聞かせ可く候、然

し乍ら相届かざる覚悟之輩之れ在るに於ては、城主にて候ハバ其もの城へ追入れ、各相談一人も残置かずなてき

りニ申付け可く候、百姓以下ニ至るまで相届かざるニ付てハ、一郷も二郷も悉くなてきり仕る可く候云々」と、峻