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奥州奥郡再仕置と九戸落城
秀吉の奥州再仕置軍出動命令は天正十九年六月二十日付だったことが、羽柴伊
産侍従(政宗)宛朱印状によって知られる。その総大将は尾張中納言秀次で、江
戸中納言家康がこれを補佐した。同年八日、再仕置軍は続々と北上地方に進出し、各処に一揆勢を鎮定した。『歯
部根元記』によると、
蒲生飛弾守氏郷は九戸討手の大将を承わり、天正十九年六月下旬に会津若松の城へ帰国せられ暫く評定あり。(略)
かくの如く軍法を定め都合三万余騎の軍兵を十二段に備へ、七月廿四日会津を打立糠夫へ下らるる。(略)既に浅野
弾正長政、秀次公の御先手堀尾帯刀吉晴、家康公の御先手井伊兵部少輔直政諸勢段々に下りければ氏郷は諸勢に先
立て進まれけり」
仕置軍の本隊は、九月一日中山峠を越え九戸党の諸城を攻撃し、姉帯城、根反城、一戸城と次々に陥落せしめ
た。二日蒲生・浅野・堀尾・井伊勢の主力が政実の居城宮野城を包囲し、激しい攻城戦に移った。
関白の命に依て出羽の国より仙北の小野寺遠江守義道、秋田城之助実季、仁賀保兵庫頭勝利鹿角郡浄法寺より押寄
津軽右京為信、松前志摩守等も信直の加勢として五戸より相詰められ上使の下知を待居たり。爰に松前志摩守は毒
矢射させんため蝦夷共餘多つれ来りてけり、其体深目長鬚髪にして事柄誠に物々敷.
といった諸勢も加わり、それぞれに攻め口を定めて陣を敷いた。その攻撃軍は総勢六万余人とも十万人とも号さ
れた。九戸本城の籠城軍は五千余人といわれ、苦しい攻防戦の末に九日四日の夕刻遂に主将九戸政実らが城門を
開いて降り、落城するに至った。