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九戸一族郎従与力の者共悉く二の丸へ追込四方より火を懸る(略)火を遁んと出る者は切殺さる刃を恐れ逃フ

省は煙にむせひ焦れ死す老若男女の叫ぶ声九天に響くらんと目もあてられぬ次第なり数代繁栄の九戸城地忽ち

一風の灰烟とそ成にける」(『南旧秘事記』)

という、まさしく「なで切り」の惨状のなかで、積年南部家内証の果てであった九戸争乱も奥羽一揆と同一に扱

われ中央仕置軍によって鎮定をみた。九戸方八人の首謀者九戸政実・櫛引清長・久慈直治・七戸家国・一戸実富・

円子光種・大湯昌次・大里親基は中納言秀次本陣の栗原郡三迫へ送られ勿首された。処刑の場所は「三迫厚地村

(『祐清私記』)とも同「石越村」(『奥南落穂集』)ともいう。なお、九戸落城直後和賀・稗貫・志和三郡が

信直に加封された。前年の七郡安堵に加えて、南部領十郡の確定がなされたのである

三、鹿角地士の行方

鹿角侍の去就

九戸争乱が南部の家士や地士の進退を二分した如く、鹿角においても信直方と政実方のいず

れに加担するか、その去就が其後の明暗をはっきり分ける結果となった。

鹿角の地士達にかかわる動きをたどると、天正十九年に入り

○三月、信直の家士月館隠岐、小平左近が九戸党の一戸図書居城を攻める。『鹿角郡旧記』等に「瀬田石村は(略

其後毛馬内靱負領家従月館隠岐知行す斯波陣の時隠岐武者奉行たり忠義抜群にして月館村七百石を賜る」とあり

「目時系図」によると目時正朝の弟瀬田石隠岐常政は利直に仕え四百石鹿角瀬田石住、その弟小平左近は同じく六