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六石五戸住とある(『岩手県史』)。

○信直、九戸の押えに大光寺左衛門を備え、八戸月館に下知して一戸櫛引の圍みを解かせた。九戸は三戸より大光寺

を向わせると聞き百騎余の武者を城外に出し防戦しようとした。大光寺左衛門佐正親は南部二十代信時の裔鹿角花

輪城にあって三千八百石と称されるが、その頃信直方として三戸に入城していた。正親の室は久慈正則の女、娘

大里修理親基の室、弟正徳の室は円子定親の女と、骨肉相喰むの複雑な心境にあったであろう。

○信直の九戸誅伐の陣触れに参集した主なる人々五十六、七名のなかに、毛馬内靱負・同権之助・同三左衛門・大光

寺左衛門・同彦十郎・大湯五兵衛・浅石清四郎・小枝指小次郎などが名を連ねている。毛馬内氏・大光寺氏は南部

門の重臣、毛馬内系図では靱負佐信次(秀範)天正十三年六五才で卒去しているのでその参加は誤伝と思われる

嗣子権之助政次の室は七戸直時の女、弟三左衛門直次の室は大湯五兵衛の女、その長女は大湯四郎左衛門の長子次

郎右衛門昌吉の室という姻戚関係にあった。大湯五兵衛は鹿角四姓の奈良氏の惣領大湯館城主二千石といわれ、信

直麾下の包囲軍のなかに大湯彦六(五兵衛昌忠)の名がある。昌忠の弟四郎左衛門昌次は九戸方の重鎮、兄弟相対

峙することもまた戦国の習いだったのか、或いは家名保持の苦肉の策であったのか知る由もない。浅石清四郎につい

ては、『浅瀬石家譜』によると千徳一戸氏の出で津軽浅瀬石村において高八千石を領し、天正十九年津軽為信に攻

められ安芸守長重とその子四人が討死、長子長定の末子清四郎安長が生きのび長じて長牛縫殿助友義の女を室とし

たという。しかし天正十九年説は誤まりで『奥南落穂集』等にある天正十六年が妥当とみられている。『鹿角由来

集』には「浅石残らず討死、末子六つニ成候ヲめのと召連欠落鹿角郡玉内エ参られ候、後浅石清四郎」を名乗った

と伝えている。今も市内南部地区に浅石姓が多い。小枝指小次郎知宗は小枝指館五百石といわれ、反信直方の多い