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も感じ称誉したりと云」(『南旧秘事記』)、竹輿に乗せ護送の途中、「降人の中櫛引・大里銘々信直公の噂を云
う、或は駅宅寓屋に及へは長政の役司に謁せん少々申す事有と云、皆南部を讒訴し有か無かの事なり、九戸始其外
は一向云わず、日数去て漸々三迫厚地村の御許に着御片付相済」(『祐清私記』)と伝えているが、修理が真実何
を述べようとしたかその由は知る可くもなく、ただその心情を察するのみである
中世鹿角の終焉
九戸誅伐は時勢の然らしむるところとはいえ、五千の兵をもって中央軍六万の軍勢と抗す
その無謀さは、いかなる理由から生じたものであろうか。また鹿角の名族大湯・大里・円
子氏らがこの無謀さに殉じたのは、たんに武門の意気地や鎌倉以来の鹿角国人の誇り高さに由るものであったか
幾つかの疑問が残る。かつて郷土史家は、九戸戦争は南北朝最後の戦争と思われること、九戸政実は長慶天皇後
裔といわれる泉山家と関係があり、大湯家には大塔宮御令旨を蔵していたという伝承もある(諏訪富多『大湯の
歴史』)としていた。或いはその支証となり得るかどうか、柴内西町に越後国村上霊樹山耕雲寺末寺で鹿角最古
の名刹祝融山万松寺がある。応永元年(一三九四)に耕雲寺を開いた傑堂能勝禅師は楠正成の子正儀の二男俗名
正能といい、全国八十カ寺に及ぶといわれるその末寺はいずれも南朝由縁の地にあるという。柴内氏は直接九戸
籠城はしていないが、柴内氏と花輪(円子)氏・大里氏の同族関係からみて、かつて建武新政期に成田頼時らを
中心とした南朝方としての事蹟が歴史的に長い糸を引いていたのかもしれない
鹿角地士の離散
中世の鹿角に関東御家人の末裔としての矜持を保ち続けたいわゆる鹿角四姓、鹿角四十一
距の生き残りも、この天正十九年奥州再仕置によってほとんどその栄光と苦闘の幕を閉じる