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こととなった。

天正期後半において、郡内にどのような有力者が分布していたか、言い替えると南部氏が事実上鹿角の大半を

掌握したなかで、何人の地士が残り得たかはやや分明を欠く。『岩泉家文書』(伊藤良三『毛馬内郷土史資料』)

三戸御在城之節館持ノ内、古館之事として、

一、花輪大光寺左衛門一、長内長内弥五郎

一、毛馬内毛馬内権之助一、長牛長牛弥四郎

一、大湯大湯五兵衛一、長峰長峰勘解由左衛門

一、柴内柴内六右衛門一、玉内玉内大〓

一、小枝指小枝指小次郎一、大里大里修

の十ヶ館があげられている。大光寺氏が花輪(円子)氏に代わって花輪へ入ったのは天正十八年とみられ、毛馬

内氏初代靱負佐死去し権之助が二代を継いだのは天正十三年、大里修理もあげられているので、これは九戸争乱

直前の状況をあらわしたものであろう。このうち大光寺、毛馬内、長牛三氏を除いては、いわゆる鹿角四氏の出

である。それぞれ知行石高を傍記しているが、当時石高制は行われていない。勿論近世の推測記録であるが、概

ねその知行規模を知ることができる。

また、『祐清私記』内山助右衛門奥北の館破却之事の項には、「先九戸近辺二戸・鹿角の両郡へ打入破却七館、

所謂二戸郡には()等也、鹿角には大里・湯瀬・小豆沢・黒土・長岩・谷内等、但し花輪・毛馬内・大湯・長

大里修理