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牛右三ヶ所秋田境の要地なれは関城の為残置」と記されているので、或いは前記十館のほかに湯瀬・小豆沢・黒

土・谷内の諸館もまだ残っていたのかも知れない。なおこの内山助右衛門について、『鹿角由来集』は、「一

天正十九年辛卯九戸陣落居之時、浅野弾正御家来内山助右衛門仰付けられ南部中館崩しニ廻り申され候時分、長

牛城ハ先年桧山陣ニて勝利を得候由仰付けられし館ニ御座候」と述べている

鹿角四十二館又は四十二侍といわれるほど、各館に分拠していた地士たちは、いつどのような経緯のなかで次

第にその姿を消していったのであろうか。

鹿角由来記』から地士たる館主の退去を記した個所をぬくと次のようになる。

○湯瀬村湯瀬中務(成田氏)領、のちに湯瀬刑部(安部氏)領となる。一戸より来る。

○谷内村谷内三郎(成田氏)領、のち一戸弾正左衛門領となる。成田氏は後南部の組下と成る(『鹿角郡旧記』)

○長牛村秋元弾正左衛門領、のち一戸攝津領、秋元氏は秋田へ牢人(前掲『旧記』『由来集』)

○石鳥谷村石鳥谷五郎(安保氏)領、のち南部九郎正友、三戸より遣わされ領す。安保氏不明。

○玉内村玉内大炊之助(阿保氏)領、津軽へ牢人す。

○花輪村花輪次郎(阿保氏)領、其子孫村替にて九戸の圓子へ知行三百石にて。のち大光寺左衛門佐正親遣わさ

○高屋村高屋筑前(秋元氏)領、秋田へ牢人。

○大湯村大湯左衛門(奈良氏惣領)領、嫡子四郎左衛門九戸へ一味仕り三迫にて切腹。二男次郎左衛門三男彦右

る。

衛門は津軽へ落行のちに次郎左衛門召出され二百石拝領し彦左衛門は津軽に奉公す。