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○毛馬内村毛馬内備中(成田氏惣領)領、のち南部靱負信継三戸より遣わさる
○瀬田石村瀬田石太郎左衛門(奈良氏)領、のち月館穏岐知行。
○小坂村小坂筑後(秋元氏)領、のち大湯五兵衛領。
)高梨村高梨土佐(秋元氏)領、高瀬周防一門子無くて絶ゆ。奥四郎左衛門(のち高梨宮内と云)三戸より文明
年中に来る(『旧記』『由来集』には一戸より来る、とあり)。
右の年代はもとより不同であるが、その多くは三戸南部氏の勢力扶植過程における鹿角地士の敗退だったこと
は間違いない。
大里氏・大湯氏・円子氏
九戸鎮定の後、その頭人として三迫に誅された大里修理・大湯四郎左衛門・円子
石馬允の遺子一族に対する処分は、当時としては異例と言えるほど寛大なものだっ
た。
大里氏について、『参考諸家系図』大里系図・大里親易の譜に「親易備前、母大光寺氏、天正十九年難ヲ遁レ
テ山林ニ隠ル、信直公文禄二年大湯五兵衛を以テ召出サルヘキノ命アリト雖モ、母固ク辞シテ同六月出羽扇田ニ行
テ扇田左門ニ寄居、慶長二年扇田ヲ去テ鹿角郡へ帰ル」とある。この事情は『系胤譜考』の柴内家譜・柴内民部少親
照の条に「大膳大夫信直公御代、文禄二年、大里備州召出サル可キ旨之処、幼少ニ依り御請申上ゲズ、之ニ依り
御立腹之御意之レ有り、大里、柴内住居暫離散仕候由」と伝える。幼少という親易の歳は不明であるが、彼は父
親基誅死後は叔母の家柴内氏に暫く寄食していた。一族は親易の出仕を拒み、親易を羽州に亡命せしめたのは、