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したのは靱負佐信次の三子直次の室が五兵衛昌光の女、直次の女が大湯昌吉室という重縁の関係によったかもー

れない。地士中の旧族である大湯氏としては、当初の南部信直と九戸政実の勢力拮抗する情勢のなかで、家名存

続のため敢えて両端を持し四郎左衛門を九戸方へ入れたのではないか。四郎左衛門の拠った大湯鹿倉城は実戦型

の山城であり、五兵衛居館の大湯字和町の新城一帯、近世北氏の御預り館・要害屋敷となった大湯城が、本来大

湯氏相伝のものであったように思われる。なお四郎左衛門反抗とともに大湯五兵衛の領知も小坂村を主とするよ

う替地があった可能性も考えられる。『奥南落穂集』には次のように載せている

大湯五兵衛昌光鹿角郡大湯住人奈良氏代々南部家ニ従テ仕信直公二千石

大湯五兵衛昌忠昌光子彦六

大湯門之助昌邦昌忠子正保中早世断絶

大湯彦三郎昌村昌吉子仕津軽

大湯四郎左衛門昌次昌光二男九戸一味死

大湯次郎右衛門昌吉昌次子仕利直公出奔津軽行

大湯彦右衛門昌致昌次二男仕津軽

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また、大湯彦右衛門は津軽二代藩主信牧に重用され、元和八年現西津軽郡木造町にある亀ヶ岡城の築城奉行を

命じられた程である。大規模な水堀をめぐらしたこの城の普請のため開いた基地が今の大湯町であり、その工事

中に多数の亀ヶ岡式土器が出たという。現在同地に大湯彦右衛門の開発記念碑が建てられている