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錯綜する連続式多郭館
市内に広く分布する館跡が、いつ頃築造されたものかは明らかでない。そのほとんど
が丘陵ないし台地の縁辺にあって、自然地形を巧みに利用していること、館の同じ郭
の上面から繩文土器や土師器・須恵器・中世陶磁器が出土し、円形や方形の時代を異にする竪穴住居跡や掘立
柱跡が重複してあらわれ、それらの出土品や遺構が必ずしも館そのものの開始の時期と一致しないことから、
最初の構築年代を知ることはまず不可能に近い。現在われわれの目に写っているのはほとんどその終末期の姿で
ある。
また、遺物や文献の上から中世の館跡と確認できるものでも、その前後に連続して多数の郭が並ぶ場合がほと
んどで、同一時期にすべての郭が使われていたとは考えられない。例えば小枝指館のいわゆる七ッ館とよばれる
連続郭の東側に、さらに続いて数個の郭状と空堀跡が認められる。小平館についても同様である
新斗米館は、腰郭に館神八幡神社の鎮座する、発掘調査後大部分破壊された郭を主郭と想定しているが、その
西に突出する台地突端部から東側字天王平・字大坊沢・字高市向へかけて、十指に近い無名の郭が空堀を伴って
続いている。さらに同様のことが柴内館から乳牛館・妻ノ神館までの間や、花輪市街地の東側台地-天戸森先端
部から黒土館・花輪古館、福士川をはさんで花輪本館・孫右衛門館に至るまでの多郭連続式館-についてもいう
ことができる。
朱内館と乳牛館は、どの郭をもって境としたのか。黒土館と花輪古館は、どの郭で区切られていたのか。前者
の二館はともに安保系なので接続していて問題がないかも知れぬが、後者の黒土氏は秋元系で花輪氏は安保系と