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なれば、当然複雑な事情が含まれているはずである。

鹿角の館の多くが極めて近接していることの理由は、その歴史的背景として、各村々が絶えず抗争を繰り返す

程対立していたか、あるいは鹿角四氏がそれぞれの単位に結束しながら伝来の地を南部氏・浅利氏などの侵略勢

力から守ろうと相寄添っていたか、そのどちらかによるものであろう。

戦国期の鹿角は、絶えず東と西の勢力に挾まれた緩衝地帯的運命にさらされていたことを思えば、後者の事情

を重視せざるを得なくなる。

館と村のつながり

このように多数の郭が間断なく連続している状況は、もちろん自然地形の然らしむるとこ

つであった。台地縁辺には舌状に伸びる地形が多いことから、その先端部の至る所に、古

代のいわゆる蝦夷の頃から、チヤシ的な堡塞が作られていたと思われる。その堡塞のなかから、中世豪族たちは

最も適当な場所を選び、防禦施設の補強を加えながら第二次・第三次の利用を計ったと推察される

近世になって、鹿角四十二館として数えられる館群は、『鹿角由来集』に「京郡四拾二江ニ侍四拾弐人住居之事」

とあるように、いずれも郷村を単位として記載されている。それは例えば「一、夏井村夏井但馬領名字安保

館有」のごとく、村名を姓とした館主名、鹿角四氏の出自を記すという共通した形式をとる

このように典型的な一村一館であった鹿角の場合は、塩谷順耳氏が指摘するように「館は農民労働力を動員す

ることにより構築されるが、小村の場合は当然長期に及ぶ夫役労働に依ったと思われる」。鹿角郡の場合は「村

の大きさは江戸中期においてさえ、乳牛四軒・新斗米一四軒・高市二七軒・小平八二軒・小枝指七四軒・瀬田工