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(下略)」とある。贄棚の比定地「贄の里」(大館市仁井田)は、当市谷内から巻山峠を経て僅か二五キロメート
ルを隔てるに過ぎない。
『吾妻鏡』に槽部(糠部)郡と肥内(比内)郡の二つの郡名があらわれているところから、その中間にはさま
れた鹿角にも、この時点で既に郡が建てられていたとみられる。建郡の事実があったとすれば、当然郡衙の所在
が問題となる。軍事的には「河田次郎が比内郡贄の棚を本拠地として、現在の北秋田郡・大館市・鹿角郡一帯を
支配していた」(『秋田県史』第一巻)という説もあるが、あるいは郡一円を勢力下におく郡衙や「鹿角」棚が
あったかどうか、これまた興味深い新たな課題として浮かんでくる。
曽我貞光申状にあらわれた「楯」
第二節に述べた通り、建武四年八月廿三日「曽我貞光申状」には、
○建武三年八月一日、鹿角郡国代成田小二郎左衛門尉対治の為曽我光俊が代官となり大里楯に馳向った。
○同四年七月十一日、再び鹿角郡に打入り、二藤次楯、當楯、大豆田楯三ヶ所を打落した。
○同十四日、大里楯に押寄せ、同□□尾楯で合戦した。
云々と記し、この時期、館はすべて「楯」と表現していたことを示している。
大里楯は現存しているので、その所在について疑問をさしはさむ余地はない。二藤次楯、當楯、大豆田楯およ
び□□尾楯についての確認はまだなされていないが、曽我氏と共に武家方として活躍した比内郡浅利六郎
四郎清連の動向を重視する観点から、比定地の考察を第二節に述べておいた