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ただこの五つの楯をもって、当時の鹿角における楯のすべてとは考えられない。他のいくつかの地点にも楯が
あり、だからこそ浅利・曽我連合軍は短期決戦をめざし十一日に打入り十四日大里楯に押寄せ、まもなく軍を返
した。二藤次楯など三楯は、比内からの進入路線にあった楯にすぎないと思われる。
津軽郡中名字に
あらわれた村名
入文五年(一五三六)と伝えられる『津軽郡中名字』に、鹿角郡の国人四氏の支配郷村とし
て次の名があげられている。
猿雄
奈良-大湯・小坂・小平・小江刺
成田-田内・夏井・名越・三ヶ田・猿雄
阿部-大里・柴内・鼻輪
秋元-高瀬・長内・小猿辺
当時、一村一館の形態をとっていたとみられるので、これらの村々にはそれぞれ館があり、各氏の勢力の拠点
をなしていたのであろう。現存の館跡をみると、いずれも多郭連続式の堂々たる館である
各氏とも、その支配村の筆頭にあげられた村落が、同族の中心いわば鹿角における惣領家の居館の在った村と
思われる。従って近世の史伝書は毛馬内村に成田惣領の居館ありと伝えているが、鎌倉末の板碑群などからみて
『郡中名字』通り、田内、現在の谷内が成田氏の本拠であったと考えられる
永祿・天正の合戦
にあらわれた館
永祿八年から同十一年に至る秋田安東愛季の鹿角侵攻戦のなかで、その攻撃目標とされ激
しい攻防の渦中に置かれた館として