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〓結び

このように、八幡平地区に現存する板碑・磨崖仏は、関東地方から移住して来た鹿角四氏の有力者の手によっ

て造立されたと思われる。これら鹿角四氏がどのような信仰を持っていたのか、個々には明らかでないが、当時

の関東地方の状況からみて阿弥陀信仰が強い影響力を持ち、前述のような弥陀・大日同体の信仰が盛んに行なわ

れたものとみられる。当時天台宗の影響力の強かった当地においても、鹿角四氏移住以前に建立されていた大日

堂や観音堂の境内に造立されたものであろう。磨崖仏については、阿弥陀三尊という本来の意味は忘れられてい

たが、天台宗の教義によって今日まで信仰の対象となっていたのである

注1「此三尊石は御尋無御座候得共、末々御尋等有之候節ハ、三尊石と可申上候、尤三尊石何石ニ而三尊石と云

候哉、と御尋有之候節は、往古法華一字一石之供養仕候由伝ニ御座候、久しく故年月日相知不申候旨御答可申

上候、心控之為印置」(句読点は筆者.

2『蓑蟲山人全国周遊絵日記』(名古屋市長母寺蔵)、「蓑蟲山人と鹿角」『上津野』三号

3千々和實「板碑源流考〓」『日本歴史』〓号

4秋田県内の時宗系の板碑とされているのは、男鹿市脇本浦田の宗泉寺境内の貞和二年=正平元年(一三四五

の碑と、雄勝郡羽後町元西馬音内の御獄神社境内の元徳二年(一三二九)の碑である。

5三輪善之助「丹党武士と板碑」『武蔵野』〓-3・千々和實「板碑源流考〓」『日本歴史』〓号

○磨崖仏の観音菩薩と勢至菩薩の種子を刻んだものを、地元では日天・月天と呼んできたという。『法華玄義

には「観音は宝意と名づけ日天子に作り、大勢至は宝吉祥と名づけ月天子となり」とある

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