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であったが寛文六年に焼失し、長牛大日堂より遷座して、胎蔵界大日如来とされているが、いくつかの不審な点
が指摘されている。その謎を解く鍵は、平安後期の真言宗の僧である覚饑の著わした『五輪九字明秘密釈』の由
に見る、大日・阿弥陀同体説にあると思われる。具体的な例は各地に見られるが、近くでは青森県大鰐町の大円
寺に伝わる、平安末期の作とされる丈六の阿弥陀如来座像である。この像は明らかに阿弥陀如来であるけれども、
大日様として崇められ信仰されてきた。また明らかに、仏教を民衆に広めるために本来仏教にない神々と習合を
はかる天台宗の教義からくる、仮諦神を取り入れたのが、谷内の五大尊である。五大尊舞に用いられる面は、金
胎大日(二面)・普賢・文珠・八幡・不動となっている。密教本来の五大明王は、不動・降三世・軍茶利・大威
徳・金剛夜叉である。舞が伝わった当時(面の造られた時としてよい)においては、二面の金胎大日が菩薩面で
不動明王にあたるものとし、他四面が慣怒の相を表わす明王面であったと推察される。それが、仮諦神である大
日・普賢・文珠・八幡(阿弥陀ともする)・不動にいつ変化したのかは明らかでないが、神仏習合説が早くから
取り入れられていたものと思われる。五大尊を地元では六体神と呼んで信仰している
大日信仰によって結ばれているのは、小豆沢・長牛・独鉗の三大日堂である。これは当時の鹿角・比内の交通
路からしても当然の成立であった。また鹿角街道の交通交流からみて、天台寺と同じ文化圏にあったことも考え
られる。だんぶり長者伝説は、ダンブリ=ダイビル=大昆盧(舎那)長者に起源をもつとされ、さらにこれら大
日信仰の連環は、津軽街道沿いに岩木川河口の十三湊へ達する「大日信仰の道」を形成しているとさえ言われる
ようになってきた