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その後、文明十八年(一四八六)に南部政盛により修理がなされたと伝えられてきたが、第三節の二、〓ペー

ンにあるように、これは誤りであることが明らかとなった。この時の旦那名は、丹治朝臣大里上総である。これ

より先、無住となっていた大日堂の別當となったのが、安倍刑部左衛門守綱で、文明十八年の棟札写に見える「

別當安倍儀安三位阿閣梨」である。「養老山喜徳寺」という山号寺号は、果たしてこの時点でなされたのかそれ

より以前からあったのかは不明である。また、比叡山の毘沙門堂の末寺になったと考えられる伝えもあり、天台

寺もやはりこの系列に入っていたようである。

別当の下に三人の社人が置かれ、小豆沢に一ノ庭、大里に籠屋、谷内に大博士と、代々その家名をもって祭祀

に奉仕していた。この中の一ノ庭は永禄年中(一五五八~一五七〇)に大里へ移り住んだとされ、この家では神

子役を出すことになっていた。それぞれに祭田を持ち、例えば別当の組織する長嶺の舞楽は、祭田を耕作する者

が順番に舞を勤める一種の分番制をとっていた

元和元年(一六一五)の検地の翌年に出された安堵状によれば、一ノ庭は十五石三斗三合、大博士は二十三石

六斗五升七合であった。別当や籠屋の安堵状は失われてしまったが、『安倍家文書』、延享二年(一七四五)十月

文書によると、別当は当初八十石九斗、籠屋は十二石であった

〓三ヶ田の古四王神社

古四王神についてはいくつかの説があるが、越国の越王=高志王を神格化したもので、阿倍氏の奉祀した神と

されている。現在は、阿倍氏の祖大彦命と武神である武甕槌命を祭神としている社が多い。古四王神は北方守護