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〓熊野神社

紀伊国の熊野三山、いわゆる本宮・新宮・那智の熊野三社を中心として、全国に広がった信仰が熊野信仰であ

る。平安末期の院政時代から特に盛んとなり、浄士信仰と結びつき、中世を通じて皇室・貴族をはじめ武士・庶

民に至るまで広く普及した。「蟻の熊野詣で」といわれるような全国的な信仰の普及は先達(熊野聖・験者・御

師などと呼ばれる人々)によって導かれ、延命長寿・極楽往生を求めて参詣が絶えなかった。また、修験者の一

大道場でもあった。

東北地方においても、やはり熊野信仰が盛んであった。多くの熊野神社は、中世に勧請されたと伝えられてい

る。『紀伊米良文書』貞和五年(一三四九)十二月二十九日の項には、糠部の「九かんのへ」と一戸の一方井の

中務殿や、津軽の安藤氏などが熊野詣をしたことが記されている。同文書の嘉吉元年(一四四一)七月十四日の

項には、比内の徳子郷の浅利氏と熊野の結縁を示すものがある。

中世の鹿角においても熊野信仰が盛んであったと思われる資料が、いくつか見い出される。

その一つは大日堂舞楽の五大尊舞の声明の一節である。

熊野ヘマイロミチニコソカラ竹林ヤソタヤクシトウザニコソイデヤヲックルトウザニコソヒヤ

クノ金デ今日ヒカル(後略)

これは熊野詣の盛んであった当時に作られ、恐らく平安時代末期を下らないものとみられる。また、大日堂舞

楽の烏遍舞の中の五博士(五人博士ともいう)は熊野社に当てられている。この舞では、六人の博士(能衆)が