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特に産金は初期藩財政への貢献が大きく、「南部家の財政饒かにして富、諸侯の冠たりと伝えらる」
「食貨
志
)と言2
わしめるほどに盛況であった。
中部家の財政豊饒は次の事例によっても窺い知ることが出来る。寛永一九年(一六四二)は、大飢饉の年であっ
た。『武江年表』によれば「三月より七月に至り、天下大飢饉、米価貴騰し死人多し。御救米銭を給はる」とあ
り、『盛藩年表』は「諸国餓死、道路に充つる」と惨状を伝えている。幕府は前年の暮れには公料巡見使を発遣
して直轄地の手当をするとともに、二月、諸大名にむけて、その年夏に予定していた諸国巡見使発遣を急拠延〓
『徳川
すると申渡したほか、私料の飢民に対し賑恤に当るべしと指令している(
。これに対応した盛岡藩は「累
実紀』
世の富によって充溢せる殻倉庫を開放し、〓米四千俵を以って飢民に賑恤し、為に近隣諸藩と異なり領内に餓死
食貨
する人がなかった」(
)と言わしめる状況であった。もちろん藩主重直の善政を賞讃する逸事例にほかなら
志
R
ないが、それはとりもなおさず藩財政が豊饒であったればこそのことであり、その富は偏えに鹿角の産金に負う
ところ大であったが故のことなのである。
その後、寛文年間に入る頃から鹿角の産金は釣瓶落しの如くに減産の一途を辿っている。しかし、その廃坑の
中から銅山に再生する所があり、あるいは新に発見される銅山もあって、鹿角は尾去沢に代表される諸銅山の隆
昌を背景に、産銅の時代を迎えるのである。当然のことながら、藩財政上において、産金と産銅の富の差はあま
りにも大きく、藩財政逼迫の一大要因であった。正徳五年尾去沢銅山の産銅は長崎御用銅に指定され、鹿角をと
りまく環境は新たな局面を迎える。すなわち幕府との係わりから諸制度の改革が行われ、以下に述べる理由もか
らみ合い鹿角の存在は特別区域化していくのである。ちなみに「長崎御用銅」とは、中国やオランダ向け輸出田